「古都、なんでいきなりそんな話し方をするようになったんだ?」
「子供のころは、よく関係を理解できませんでした。ですが、今は違います」
「それで、私、仕事のしすぎで頭がおかしくなったんですかね? 今、理解できない言葉を言われた気がしたのですが」
いきなりアメリカだかどこからか帰ってきた秋久に、父も母も慌てふためいていた。だが、当の本人は淡々と、いつも通りの軽い印象を崩さず、その場にいた皆の毒気を抜いたのは言うまでもない。
「理解できないの? 古都、大人になったんじゃなかった?」
内心ではわずかに腹立たしさを覚えたが、努めて冷静に彼へ視線を向ける。
秋久の両親はいまヨーロッパに、弟の正久は都内で一人暮らしをしているため、実質この屋敷にいるのは使用人だけという状況が、この一年ほど続いていた。
「だから言ってるだろ? 俺と結婚してって」
つい昔のようにため口が出てしまい、慌てて口をつぐむ。
しばらくの沈黙が続き、なぜか居心地の悪さを覚えた私は、この場から逃れるように立ち上がった。
「古都さ、お前、本当はこの家の仕事をしたくなかったんだろ?」
その言葉に、背を向けていた私は、ゆっくりと秋久の方へと振り返った。
さっきまでとは違う真剣な表情に、私は言葉を失った。
「本当は他に興味があったんだろ?」
確かに、私は経理や会計にまったく興味を持てなかった。
一緒に育ったとはいえ、世界を飛び回る秋久とは別次元の人間――今ではそのことを痛いほど理解している。
「そんなくだらないことを言いに来ただけなら、早くアメリカにお帰りください」
呆れたように言われ、その一言に私はギュッと唇を噛む。
ただこぼれ落ちただけの言葉。肯定する気も否定する気もなかった。
「ご無沙汰しております」何か失態を見せてはいけないと思い、私はそれだけを答えるにとどめたが、秋久はすぐに話を切り出した。「何かあれば俺に報告してくれ、今日は彼を紹介したかっただけだ」秋久が山脇に視線を送ると、彼はわずかに複雑な表情を浮かべたのち、静かに立ち上がった。「それでは専務、会社でお待ちしておりますので、可能な限りお急ぎください」少し棘のある言い方に私は驚いたが、秋久はまるで気にも留めないように手をひらひらと振るだけだった。「二人とも座ってください」父と母に向かって秋久がそう声をかけたものの、厳格な父は頑なにそれを拒んだ。どうしてここまで妄信的に人に尽くせるのだろうと胸の内で思ったが、私は何も言わず、ただ自分の手を見つめることしかできなかった。父が座る気のないことを悟ったのか、秋久は小さく息を吐いてから私に視線を向ける。「古都、今日中に仕事の引き継ぎをしてくれ」「今日中!?」そんな急な話をされるとは思ってもおらず、私は驚いて思わず声を上げたが、すぐに父が口を挟んできた。「古都! なんだその返事は、『分かりました』だろう。お前の仕事は私たちが把握しているから問題ないと秋久様にも申し上げてある、今日一日いただけることになったんだぞ」なぜこんなことで怒られなければならないのか理解できず、理不尽だと思ったが、父に何を言っても無駄だということは痛いほど分かっている。「はい」静かに返事をして俯くと、秋久が淡々と話を続けた。「あと、それが終わったら荷物もまとめておいてくれ。今日の夕方には人をよこす。荷物は多いか?」「引っ越しをするということですか?」結婚といっても、私のような平凡な女性と結婚するという事実さえあれば十分だと思っていた私は、その言葉に驚きを隠せなかった。秋久が海外から戻り、どうするつもりなのか聞かされてはいなかったが、当然この屋敷に住まうものだとばかり思っていたのだ。「この屋敷から会社も、空港も遠い」空港……それほど頻繁に海外へ行くということなのだろう。確かにこの屋敷は郊外の閑静な住宅街にあり、都心からはやや距離があるものの、通えないわけではないと私は思った。けれど、私には何一つ口を挟む権利などなかった。「荷物はそんなにありませんので、大丈夫です」「分かった」父と母が同席しているせいなのか、秋久が仕事モードに入っ
「だな。お前は薄情だもんな」珍しく辛辣な言葉に、私は言いすぎたかもしれないと思いつつも、この茶番を一刻も早く終わらせたい気持ちで黙り込んだ。「それでも、これは決定だから」「え?」かなり間の抜けた声を上げてしまったと思い、慌てて秋久を仰ぎ見る。そこには、戻ってきて初めて真剣な表情を見せる彼がいた。「親父たちも了承済みだ。お前の両親には、いまから話をしてくる。古都には先に伝えておいたからな」「ちょっと! 秋久!」何年ぶりかに思わず名前を呼んでしまった。だが後悔する間もなく、そのまま秋久は屋敷の中へと足を進めてしまう。――秋久と結婚? 何のために?その言葉が本気だと分かっても、私には理解できなかった。ただ茫然と立ち尽くしていると、秋久に伴われた両親がこちらへ向かってくるのが見えた。「古都」静かだが反抗を許さぬ響きを帯びた父の声に、私は思わず身がすくむのを覚えたあまり感情を表に出さず、ずっとこの大友家に仕えてきた父とは、仲が良いとは言えなかった。むしろ上司と部下、あるいは子弟関係とでも言ったほうが適切かもしれない。母も同じだ。常に秋久や正久を一番に、三番目が私――それが当たり前だった。「はい」静かに声を発し、私は姿勢を正す。「秋久様から話を聞いた。しっかりお役に立つように」「え……?」意味が分からず答えようとしたそのとき、今度は母が私を見た。「秋久様のご迷惑にならないようにね」私の意志とは無関係に、秋久との結婚が決まった瞬間だった。どうして? 何のために?そう思わずにはいられなかったが、私との結婚はやはり形だけのもので、私はただ再び利用されたに過ぎない――その事実を、すぐに思い知らされることになる。翌日。本当になぜ悲しいかわからなかったが、ベッドに入ると涙がこぼれてしまったことで瞼は重く、冷やさずに寝てしまったことを悔やんでももう遅かった。カーテンをゆっくりと開けると、日の光がやたらとまぶしくて目を細める。ただの職場だと思っていた本邸も、秋久がそこにいるときは、まるで違う世界に変わってしまう――そう痛感させられる気がした。そんなことを考えていても、今日も仕事は山のようにある。主人不在のこの時期は、前にいたハウスキーパーやメイドの数も減り、いまや父がこの家で全権を握っている。そのため、私もさまざまな場所の仕事を
「古都、なんでいきなりそんな話し方をするようになったんだ?」じっと表情を崩さずにいた秋久が、わずかに真剣さを帯びた顔を見せて言葉を発した。「子供のころは、よく関係を理解できませんでした。ですが、今は違います」淡々と、まるで仕事をこなすかのように答えると、秋久は納得したのか、ため息まじりに「ふーん」とだけ口にした。「それで、私、仕事のしすぎで頭がおかしくなったんですかね? 今、理解できない言葉を言われた気がしたのですが」自分で淹れた紅茶に手を伸ばし、ゆっくりと口に運ぶ。芳醇な香りのアールグレイ――秋久のために用意した高級な茶葉だが、やはり格別で、私は大きく息を吐いた。いきなりアメリカだかどこからか帰ってきた秋久に、父も母も慌てふためいていた。だが、当の本人は淡々と、いつも通りの軽い印象を崩さず、その場にいた皆の毒気を抜いたのは言うまでもない。「理解できないの? 古都、大人になったんじゃなかった?」小気味よい陶器の触れ合う音を響かせて、秋久はティーカップを置き、少しからかうように言った。内心ではわずかに腹立たしさを覚えたが、努めて冷静に彼へ視線を向ける。「旦那様たちがいないのに、どうしてお帰りに? 本当の用事はなんなのですか?」秋久の両親はいまヨーロッパに、弟の正久は都内で一人暮らしをしているため、実質この屋敷にいるのは使用人だけという状況が、この一年ほど続いていた。それでも屋敷の維持管理は忙しく、秋久の昔からの冗談に付き合っている暇などない――そう思うと、私は少し苛立ちを覚えながら彼を見据えた。「だから言ってるだろ? 俺と結婚してって」「もう、いい加減にして……」つい昔のようにため口が出てしまい、慌てて口をつぐむ。昔はこんなにつかみどころのない人ではなかったのに、いつからこんな飄々とした性格になり、本心を見せなくなったのか、もう思い出すことさえできなかった。しばらくの沈黙が続き、なぜか居心地の悪さを覚えた私は、この場から逃れるように立ち上がった。「古都さ、お前、本当はこの家の仕事をしたくなかったんだろ?」「え……?」その言葉に、背を向けていた私は、ゆっくりと秋久の方へと振り返った。さっきまでとは違う真剣な表情に、私は言葉を失った。――いつから、そんなことを見破っていたのだろう。「本当は他に興味があったんだろ?」「何を言
「結婚しよう?」ちょっとそこまで付き合って?そんな誘い方でこんな言葉を口にするあなたが嫌い。それでも私は、この提案を拒むことができない。「古都、俺のこと好きだろ?」「そんなわけありません」必死に紡ぐ否定の言葉さえ、飲み込むこのキスに抗えない自分が一番嫌い。小さいころからずっとそばにいるあなたは、私にとって一番遠い雲の上の人。それなのに、どうしていきなり戻ってきてそんなことを言うの。私は使える駒に過ぎないのでしょう?あなたを嫌いになりたい。◇◇◇「なんとおっしゃいましたか?」私は目の前のその人に、小さくため息をつきながら言葉をかける。生まれ持ったダークブラウンのきれいな髪は、ゆるくカールされていて、それを無造作ながらも計算し尽くしてセットしていた。髪と同じ色をした、吸い込まれそうなアーモンド色のキリッとした二重の瞳が、楽しそうに私を見つめている「だから、結婚しようって」いつも軽薄な彼は、女性を見れば口説かずにはいられないという使命を持って生きているような人間だ。久しぶりに再会した私は、また始まったと思い、穏やかな春の日差しが心地よい庭へと視線を向けた。ここは旧財閥である大友グループの屋敷。腕の良い庭師が手がけた見事な薔薇園が広がっている。大きな噴水が真ん中にあり、その周りを囲むようにレンガで作られた小道が伸びていて、いつ見ても美しい。そんなことを思いながらも、やはり聞き間違いではないと感じ、私は優雅に紅茶を飲むその人を改めて見た。「誰が誰とでしょうか?」「誰って、誰がいるんだ。お前と俺だよ」表情を変えることなく、紅茶に視線を向けたまま告げられたその言葉に、私は大きくため息をついた。目の前のお坊ちゃま――大友秋久は、由緒正しい家柄に生まれ、頭脳だけでなく、高い身長と見事な容姿まで持ち合わせている。神はどれほど不公平なのだろう、とつい思わずにはいられないほどの完璧な人間だ。昔からプライベートも派手で、隣にはモデルや女優など、数多くの女性が付き添っていた。そんな人がいったい何を血迷ったのか――そう思うのは仕方のないことだ。「申し訳ありませんが、私たちって、結婚するような間柄でしたか?」気持ちを高ぶらせないよう意識しながら声を発すると、秋久は「違うな」とだけ、はっきり答えた。その言葉に唖然とし、私はただ彼を睨みつけた